2009年12月11日金曜日

Missa Pange Lingua


 この季節になると,宗教音楽をよく聴くようになる.
 
 大学生の頃,中世からルネサンス期のヨーロッパの音楽しか扱わない,という変わった合唱サークルに所属していた.
 大学に入ってから,せっかくだから何かサークルに入ろう,と人並みに考えた私は,もともと音楽が好きだったので音楽関係のサークルがいい,しかし大して楽器を弾けるわけでもないし,合唱サークルならいいのでは,と短絡的に考え,当時あった合唱サークルを色々見て回ることにした.ルネサンス時代の音楽など聞いたこともなかったし興味も持っていなかったが,その他のサークル(合唱サークルだけで7つくらいはあったと思うが)が全て肌に合わなくて,結局最後に残った,その聴いた事もない音楽を扱うサークルに入ったのだった.

 今自分たちが耳にする音楽は,その殆どが17世紀後半以降に作られたものだ.それ以前,我々が「音楽」として認識している最も古いものはグレゴリオ聖歌ではないか,と思うが,これが9-10世紀に作られた,という事を考えると,その後700年くらいの間,音楽の進化はとてもゆっくり進み,恐らくJ.S. バッハの登場以降,200年くらいの間で,めざましい音楽の多様化が起きたように思える.
 しかしその700年の間に作られた音楽を,好んで演奏し,また聴く人々がいる.サークルに入って初めて触れたそれらの音楽は,ある意味新鮮で,しかも自分の肌にとても合った.例えば1400年代,などというと,東ローマ帝国滅亡,とかいう時代だから,そんな遠い昔の暮らしを思い浮かべながらその頃の音楽を聴く,というのも楽しくて,ずいぶん色々なCDを買った.

 このCDは,おそらく中世~ルネサンス時代の作曲家の中でも,まだ知名度が高いであろうジョスカン・デ・プレ(1440?-1521),という作曲家のミサ曲の演奏で,私が最初の頃に買ったCDの一つだ.

 ちなみにこの頃買ったCDは,今は廃盤になってしまったのか,Amazonで5000円を超える高値が付いているものが少なくない.まさか妻に聴かせても,「即売れ」,とは言われないと思うが,さすがにこの風変りな趣味の音楽を理解してもらえると思えなくて,殆ど家ではかけたことがない.

2009年11月6日金曜日

オッド・トーマスの霊感





 子供の頃からホラー小説が好きで,よく読んでいた.

 10代のころは,スティーブン・キングとディーン・R・クーンツという二人がホラーの巨匠と並び称されていて,この二人の小説はあらかた読んでいたように思う.全篇が陰鬱で恐怖に満ち溢れ,時としてそのまま絶望的な結末に至るキングに対し,愛とか友情とか,「善なるもの」に対する信頼にあふれていて,大抵は幸せなエンディングを迎えるクーンツの方を元々は好んていたが,少なくとも最近読む限り,キングがどんどん人生の本質に近づいた作品を書いている気がして自分の中でも評価が高いのは,キングが成長したからか,それとも自分が成長したからだろうか.

 実際キングはその後数々のヒット作品で知名度を上げていったのに対し,クーンツは幾つかの不幸な出版事情などが重なったせいもあって,日本では殆ど名の知られない作家になってしまった.

 先週本屋でこの新刊を見て,今もクーンツが作品を書き続けている事を知った.クーンツも既に60歳,この久しぶりの新作では,彼が還暦を迎えるまでに恐らくつかんだのだろう(しばしば苦い)人生の本質的な成分と,その40年にわたる作家生活の間じゅう保ち続けた「善なるもの」への信頼とが,稀有な結合をして,クーンツにとっての最高傑作に仕上がっている.

 読み始めには,この安っぽい題名と,一人称で始まるどことなく軽薄な文章とが,これまた稀有な結合をしていて(ちなみに原題はOdd Thomas,少なくとも安っぽくはない),つまらない本を買ってしまったかと心配したのだったが,気がつくと周りの出来事が目に入らないくらいストーリーに集中してしまっていて,そんな感覚はキングの作品を読んでいても最近感じることのないものだった.そして物語が後半にさしかかるにつれ,この軽薄さすら作者の計算だった,という事に気づくことになる.
  
 本国アメリカでの人気もさることながら,クーンツ自身この作品で何かをつかんだ様子で,シリーズとして5-6作品が発表される予定だという.

 60歳になってクーンツの人生の第二の波がやってくるとすれば,クーンツの様に「善なるもの」を信頼し続ける人生も,いつか報われることがあるのでは,という気が確かにしてくる.

 

2009年10月30日金曜日

Frigo Est


 先月ベルギーに行った.行ってみて認識した事は,いわゆるベルギー料理,と日本で呼ばれているものは基本的に庶民の料理で,ベルギーでも畏まったレストランで食べるのはフランス料理である,という事だ.
 勿論旅行中は,その所謂ベルギー料理,ばかり食べていたわけだが,味付けは高級フランス料理より単純である分,分かりやすくおいしいものが多かった.ベルギーは美食大国ともいわれるが,こういう普段使いの料理のおいしさが,その背景にあるのかもしれない.

http://www.eurobeer.net/frigo-est/
 水道橋にあるこのお店のシェフは,昔ベルギーのレストランで修業したのだとか.ここでは気取らない,しかしレベルの高いベルギー料理が,豊富なベルギービールと一緒においしく食べられる.

 
 ベルギービールは,一説によれば全部で1500種類.ベルギーの総人口が1000万人程度であることを考えると,その種類は極端と言ってよいくらい多い.ちなみに何故かは定かではないが,ベルギーではワインが作れないのだそうで,そこでベルギーの人々は,ワイン代わりに多種多様に楽しむべく,多種多様のベルギービールを生み出した,と言われている.
 その中には,thirst quencherとして,とりあえずのどの渇きを潤すためのビールもあれば,ワインと同じ14度ものアルコール度数のビールや,デザートの様に甘く楽しむビールもあり,確かに知識さえあれば,ワインよろしくどんな食事とも合わせる事ができそうだ.


 そういえば先日テレビを見ていたら,スコットランドの人が,畏まった席で食事をしながら,スコッチを原液でガブガブ飲んでいた.スコッチのアルコール度数は40度.場所柄,高級で香り高いスコッチなのかもしれないが,これでは日本人とは相当違う味覚になるだろうな,と思った.


2009年10月23日金曜日

The Köln Concert


http://www.youtube.com/watch?v=qMN4U-Alqfc&feature=related
 

 初めてキース・ジャレットの曲を聴いたのは,いつの事だったか.学校の演奏会で誰かがこの曲を弾いていたのだと思うが,私の頭の中では,その時のはっきりした記憶がないまま,場面は中学生か高校生の頃,このCDを買って自宅で聴いているところに飛んでしまう.

 キース・ジャレットは,コンサートを行う街の空気や佇まいにインスピレーションを受けて,即興で曲を演奏するのだという.だから彼のピアノ・ソロのCDは,その殆どがライブ録音で,コンサートが開かれた場所の名前が付けられている.曲名も,その日に弾いた曲が番号順に(あるいはアルファベットを用いて)並んでいる無味乾燥なものだ.しかしそんな風に名付けられた曲は,名前が機械的であるが故に,逆に存在感を増すかの様で,この曲の Köln, pat 2c という名前も,不思議にその硬質で美しい響きによく合うように感じられる.

 いつから聴いているのか分からないくらい,この曲は自分の中で自然な存在になったが,今聴いてもいつも心動かされて,ケルンには行った事がないし,曲が作られたのも30年前になるけれど,いまケルンに行ったらこの曲の何かをその空気に感じられたりするのだろうか,などと思ったりする.


2009年10月16日金曜日

雪沼とその周辺

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一番好きな本の話から.

本屋で平積みになっている本の中から,その時の気分に合わせて,ジャケ買いよろしくカバーと題名だけで未知の作家のものを選んで買ってみる,という衝動的な事を時々する.

 確かいつかのお正月近く,近所の本屋でこの本の表紙を見て,静かな佇まいがその時の気分にしっくりきて,何か別の本と一緒に買った.実際には何カ月も経ってから,気分も無関係に,他に読む本がなくて仕方なしに読み始めたのだったが.

 それ以来,何回も読みなおしていて,おそらく一番好きな本の一つ,少なくとも,「自分はこれが好き」と人に薦めたい一番の本だという気がする.

 雪沼という架空の土地を舞台に住人の暮らしがやわらかい言葉でつづられ,そのあり様は「静謐」という言葉がよく似合うが,あくまで紳士的に描かれる人々の心の微妙な綾が,読み手の胸に確かに響く.

 それぞれの短編の最後の一文は,それまで淡々としているかに思える筆致が急に勢いを増して,しばしば数行をも費やすような長い一文で,力強く読み手に一気に迫る.これは堀江さんが,物語の最後にようやく「日本語」という自分の伝家の宝刀を抜くかの様で,こちらはそれに完全にやられてしまう.
 まあ彼は元々はフランス文学者なのだが.